ジャイナ教も仏教と同じようにバラモン教の神を否定します。その世界感覚は霊物二元論で、聖典の真理を信じることを道とするなど、仏教の経量部と似ています(ジャイナ教を仏教と同根だと考える人もいます)が、仏教徒も神を信じている(大乗仏教の菩薩や神々は大衆救済の方便です)と誤解しているようです。おそらく「空」を神の本質として語ったと誤解したのでしょう。ジャイナ教と対比すると仏教のことがより鮮明になります。今でもインドには450万人位の信者がいるといわれますし、ガンジーもその影響を受けたといわれるこの宗教の思想を少し詳しく見てみたいと思います。
仏教が魂の本質を『無』だとして、知的認識作用を無の方向に向ける、極端に言えば禅宗のように「仏に会えば仏を殺す」というように、一切の知、認識を消滅させようとするのに対し、霊魂(地水火風樹木という自然にも知的魂を信じるジャイナ教にとって、アートマンは単なる魂というより、ギリシャ風の理性的霊魂だという感じです)の本質を知であるとするジャイナ教は「全知者」の教え、経典を正しい知識として信仰し考え行うこと、「正信」と「正知」と「正行」を「全知者」になる道、解脱の道としたということです。
心の働きを中心にものごとを見、世界を刹那消滅の幻想のように考え、我の価値を否定し、その実在を否定する仏教に対して、知的真理認識を愛するジャイナ教は世界の物質性を認め、我の常住不滅を強調するもののようです。仏教は認識主体(仏教はアートマン・魂という言葉をあまり使わないようです。固定的永続的存在を思わせるからでしょうか。自己の存在を否定するからでしょう。すべては縁起する「識」の連続に過ぎないのです。)の我意識は、刹那にとらわれた虚妄の連続として捕らえているようですが、ジャイナ教は魂(というより霊魂ですが)を不滅の我そのものと考えているようです。仏教徒にとっては魂(徒考えられている「識」の連続体)は解脱とともに消滅するものです。魂をあの世まで続く不変不滅のものと考えるジャイナ教徒から見ると、仏教は、霊魂も点滅する単なる意識の断続体に過ぎないといっているように思われるようです。しかし、仏教徒にとっても魂は、その解脱までは、連続する因縁で固められた、一個の存在でしょう。ジャイナ教徒には現実感の薄い、唯心論的感覚は理解できないようですから、両者の論争は完全なすれ違いです。
ジャイナ教の特徴は「真人とは全知者であり、貪欲等の悪徳を征服した人であり、三界の人々に尊敬され、また如実にものを語る人であり、神にして最高主宰神である」という考え方にあります。全知者は最高主宰神となり、霊魂ははそういう存在になりうるということでしょうが、最高主宰神の役割には創造ということがなく、支配ということもないようで、ほかの宗教とまったく違う概念、というより世界の創造神、支配神の存在を否定しているようです。その点仏教と同じです。彼らのいうあの世はソクラテスのイデア国のようなものでしょうか。あるいは「全知者」とは永劫の昔から解脱した霊魂の総体ということでしょうか。ジャイナ教には天国という観念はないようで、それでは輪廻を脱した霊魂はどのように存在するのかという疑問が残ります。ジャイナ教の思想はこの本の記録だけでは本当のところは分からないのですが、全知者の霊魂として寂静のうちに存在するのでしょうか。その点は明らかでありません。
ジャイナ教の物心すべてに実在を認める思想は「実体論」といわれます。その概略を描写してみましょう。
「最高の原理は知と無知との二つである。区別知とはその両者を区別することであり、取るべきものを取るべきものと無し、また捨てるべきものを捨てるべきものと為す人に現れ出る。じつに捨てるべきものとは行為主体の持つ貪欲等であり、その結果は区別知を有しないことである。取るべきものとは精神性を唯一の特質としている最上の光である」 p129
まず「世界」の第一原理として「知を本質とする霊魂」と「無知を本質とする非霊魂」を立てます。そして「霊魂」はその本性である「精神性」を求めるものということでしょう。またその「精神性」が、「霊魂」と「業(欲望・行動)」が違うもの(無知によるもの)だという理解、そしてその「業」の抑止撲滅に導くということのようです。
「霊魂」に「知」と「無知」という二つの原理を当てるのは、すべてのものに関して「一方的な本質を有さない」(祖師マハービーラの言葉)と信じる相対論者だからです。
「霊魂」について「五つの実在体(霊魂と非霊魂―虚空とダルマとアダルマと物質)」という別の区別をした考察もあります。「霊魂」を解脱したものと輪廻しつつあるものとに区別します。輪廻しつつある霊魂を心のあるものと無いものに区別します。心のない霊魂を動くものと動かないものに分けます。心のない動く霊魂とは感覚器官だけで生きている貝殻や虫けらのような魂ということで、五感を働かせる霊魂のようです。心を持つ動く霊魂とは物事の知識などを習得しそれによって活動し、それを話し、それを記憶するなど意識的な働きをするもののようです。動かない霊魂とは例えば砂粒を集めて煉瓦などに変化させ、その変化を維持する霊魂ということでしょう。それを地の霊魂と呼びます。水の霊魂とは水滴を集めて泉や川にするということでしょう。そのほか火の霊魂、風の霊魂、樹木の霊魂などがあります。
四つの「非霊魂」のうちダルマとアダルマと虚空は、部分を持たず何もしないが、物が移動する場所、空間ということのようです。虚空はたんなる空間でしょう。生活空間、社会空間のようなものを、倫理道徳空間として、ダルマとかアダルマとかいうのかもしれません。
「物質」とは可蝕性で味と香りと色を持つ物とされます。物質は認識できない原子とその集合体という二種類の状態に分けられています。見えない原子の集合分裂で物質ができていると考えられていたようです。世界最初の最初の原子論といわれるゆえんです。なぜ原子という発想を思いついたのかわかりませんが、多分に語源的な分析がありそうです。
「時間」は実在体には入らないが、「実体」として考えられています。「実体は属性と状態を有する」という定義で、五つの実在体も実体で、時間を入れて六つの実体が存在するというわけです。「実体」とは、時間は「進行・停止・受容・経過の原因である」という属性と状態だけは存在するものということで、時間のために作られた概念でしょう。
ジャイナ教徒はこのように、そのほかに「七つの原理(霊魂と非霊魂と流入と繋縛と制御と寂静と解脱)」という考え方もあって、物事を原理的に考える性癖、原理主義的性格に大きな特徴があるようですが、様々な考え方を認めるということで相対論者とも呼ばれます。
その相対論を「七句表示法」p143 といいます。①ある点から見ると有り、②ある点から見ると無し、③ある点から見ると有りかつ無し、④ある点から見ると言い表されず、⑤ある点から見ると有りかつ言い表されず、⑥ある点から見ると無しかつ言い表されず、⑦ある点から見ると有りかつ無しかつ言い表されず、というのです。このことを表現する「相対論の花束」p147 という詩句があります。
「不定なる本質よりなるものは全知者の知る対象である。」
一部分限定された物は〈見方〉の対象であると考えられる。
一部分に留意する理論が正しい知識の道に存するときに、
完全なる意義を決定する〈ある点から見ると〉という原理が正しい知識とよばれる。」
また「ジャイナ教の教えは、一切の見方を差別無しに承認するから、主張を立てるものとはならない」と宣言しています。主義主張ではなく真理を語っているということでしょうか。「空」を神と誤解しているとはいえ、仏教の唯心論的世界観も一つの見方、妄想としてとして理解するのでしょう。
輪廻する霊魂について、身体と同じ大きさを持つ魂という考え方をしている(p162) と批判されているようです。ジャイナ教では霊魂は蟻にも象にも転生するわけで、そのたびごとに大きさが変わると考えていたのかもしれません。批判者の論理は「象の身体から蟻の身体に写ったら蟻の身体は壊れてしまう」などというばかばかしいものです。ジャイナ教側からは霊魂は身体に合わせて変化すると答えます。そこで批判者は変化するということは無常なもの、すなわち「刹那生滅」の存在ということになると攻撃します。別に「非刹那生滅常住」でも変化していけないことはないと思いますが、二元論的に霊魂と身体の関係を把握するにおいて、魂の大きさということが必要になるのは、身体全体に関わる・宿るという考え方から来ているのでしょう。霊魂は大きさを持たないとか、身体、あるいは感覚器官や脳などに接触するだけという考え方もできると思うのですが、ジャイナ教徒はそのようには考えなかったのでしょう。昔の人はだいたいそういう実体的感覚だったのでしょうす。とはいえ、差別相の身体と無差別相の魂を結びつけるのが容易な、唯心論的あるいは唯神論的感覚の強いインド人が霊物二元論の、霊的世界と物的世界が別々だということに何となく矛盾を感じるのも分かります。ジャイナ教の考え方はインド的にはきわめて異質で、原子論や霊物二元論などギリシャ人の考え方に近いといえるでしょう。
これで唯神論と霊物二元論の違いが鮮明になってことと思います。
卐
仏教が魂の本質を『無』だとして、知的認識作用を無の方向に向ける、極端に言えば禅宗のように「仏に会えば仏を殺す」というように、一切の知、認識を消滅させようとするのに対し、霊魂(地水火風樹木という自然にも知的魂を信じるジャイナ教にとって、アートマンは単なる魂というより、ギリシャ風の理性的霊魂だという感じです)の本質を知であるとするジャイナ教は「全知者」の教え、経典を正しい知識として信仰し考え行うこと、「正信」と「正知」と「正行」を「全知者」になる道、解脱の道としたということです。
心の働きを中心にものごとを見、世界を刹那消滅の幻想のように考え、我の価値を否定し、その実在を否定する仏教に対して、知的真理認識を愛するジャイナ教は世界の物質性を認め、我の常住不滅を強調するもののようです。仏教は認識主体(仏教はアートマン・魂という言葉をあまり使わないようです。固定的永続的存在を思わせるからでしょうか。自己の存在を否定するからでしょう。すべては縁起する「識」の連続に過ぎないのです。)の我意識は、刹那にとらわれた虚妄の連続として捕らえているようですが、ジャイナ教は魂(というより霊魂ですが)を不滅の我そのものと考えているようです。仏教徒にとっては魂(徒考えられている「識」の連続体)は解脱とともに消滅するものです。魂をあの世まで続く不変不滅のものと考えるジャイナ教徒から見ると、仏教は、霊魂も点滅する単なる意識の断続体に過ぎないといっているように思われるようです。しかし、仏教徒にとっても魂は、その解脱までは、連続する因縁で固められた、一個の存在でしょう。ジャイナ教徒には現実感の薄い、唯心論的感覚は理解できないようですから、両者の論争は完全なすれ違いです。
ジャイナ教の特徴は「真人とは全知者であり、貪欲等の悪徳を征服した人であり、三界の人々に尊敬され、また如実にものを語る人であり、神にして最高主宰神である」という考え方にあります。全知者は最高主宰神となり、霊魂ははそういう存在になりうるということでしょうが、最高主宰神の役割には創造ということがなく、支配ということもないようで、ほかの宗教とまったく違う概念、というより世界の創造神、支配神の存在を否定しているようです。その点仏教と同じです。彼らのいうあの世はソクラテスのイデア国のようなものでしょうか。あるいは「全知者」とは永劫の昔から解脱した霊魂の総体ということでしょうか。ジャイナ教には天国という観念はないようで、それでは輪廻を脱した霊魂はどのように存在するのかという疑問が残ります。ジャイナ教の思想はこの本の記録だけでは本当のところは分からないのですが、全知者の霊魂として寂静のうちに存在するのでしょうか。その点は明らかでありません。
ジャイナ教の物心すべてに実在を認める思想は「実体論」といわれます。その概略を描写してみましょう。
「最高の原理は知と無知との二つである。区別知とはその両者を区別することであり、取るべきものを取るべきものと無し、また捨てるべきものを捨てるべきものと為す人に現れ出る。じつに捨てるべきものとは行為主体の持つ貪欲等であり、その結果は区別知を有しないことである。取るべきものとは精神性を唯一の特質としている最上の光である」 p129
まず「世界」の第一原理として「知を本質とする霊魂」と「無知を本質とする非霊魂」を立てます。そして「霊魂」はその本性である「精神性」を求めるものということでしょう。またその「精神性」が、「霊魂」と「業(欲望・行動)」が違うもの(無知によるもの)だという理解、そしてその「業」の抑止撲滅に導くということのようです。
「霊魂」に「知」と「無知」という二つの原理を当てるのは、すべてのものに関して「一方的な本質を有さない」(祖師マハービーラの言葉)と信じる相対論者だからです。
「霊魂」について「五つの実在体(霊魂と非霊魂―虚空とダルマとアダルマと物質)」という別の区別をした考察もあります。「霊魂」を解脱したものと輪廻しつつあるものとに区別します。輪廻しつつある霊魂を心のあるものと無いものに区別します。心のない霊魂を動くものと動かないものに分けます。心のない動く霊魂とは感覚器官だけで生きている貝殻や虫けらのような魂ということで、五感を働かせる霊魂のようです。心を持つ動く霊魂とは物事の知識などを習得しそれによって活動し、それを話し、それを記憶するなど意識的な働きをするもののようです。動かない霊魂とは例えば砂粒を集めて煉瓦などに変化させ、その変化を維持する霊魂ということでしょう。それを地の霊魂と呼びます。水の霊魂とは水滴を集めて泉や川にするということでしょう。そのほか火の霊魂、風の霊魂、樹木の霊魂などがあります。
四つの「非霊魂」のうちダルマとアダルマと虚空は、部分を持たず何もしないが、物が移動する場所、空間ということのようです。虚空はたんなる空間でしょう。生活空間、社会空間のようなものを、倫理道徳空間として、ダルマとかアダルマとかいうのかもしれません。
「物質」とは可蝕性で味と香りと色を持つ物とされます。物質は認識できない原子とその集合体という二種類の状態に分けられています。見えない原子の集合分裂で物質ができていると考えられていたようです。世界最初の最初の原子論といわれるゆえんです。なぜ原子という発想を思いついたのかわかりませんが、多分に語源的な分析がありそうです。
「時間」は実在体には入らないが、「実体」として考えられています。「実体は属性と状態を有する」という定義で、五つの実在体も実体で、時間を入れて六つの実体が存在するというわけです。「実体」とは、時間は「進行・停止・受容・経過の原因である」という属性と状態だけは存在するものということで、時間のために作られた概念でしょう。
ジャイナ教徒はこのように、そのほかに「七つの原理(霊魂と非霊魂と流入と繋縛と制御と寂静と解脱)」という考え方もあって、物事を原理的に考える性癖、原理主義的性格に大きな特徴があるようですが、様々な考え方を認めるということで相対論者とも呼ばれます。
その相対論を「七句表示法」p143 といいます。①ある点から見ると有り、②ある点から見ると無し、③ある点から見ると有りかつ無し、④ある点から見ると言い表されず、⑤ある点から見ると有りかつ言い表されず、⑥ある点から見ると無しかつ言い表されず、⑦ある点から見ると有りかつ無しかつ言い表されず、というのです。このことを表現する「相対論の花束」p147 という詩句があります。
「不定なる本質よりなるものは全知者の知る対象である。」
一部分限定された物は〈見方〉の対象であると考えられる。
一部分に留意する理論が正しい知識の道に存するときに、
完全なる意義を決定する〈ある点から見ると〉という原理が正しい知識とよばれる。」
また「ジャイナ教の教えは、一切の見方を差別無しに承認するから、主張を立てるものとはならない」と宣言しています。主義主張ではなく真理を語っているということでしょうか。「空」を神と誤解しているとはいえ、仏教の唯心論的世界観も一つの見方、妄想としてとして理解するのでしょう。
輪廻する霊魂について、身体と同じ大きさを持つ魂という考え方をしている(p162) と批判されているようです。ジャイナ教では霊魂は蟻にも象にも転生するわけで、そのたびごとに大きさが変わると考えていたのかもしれません。批判者の論理は「象の身体から蟻の身体に写ったら蟻の身体は壊れてしまう」などというばかばかしいものです。ジャイナ教側からは霊魂は身体に合わせて変化すると答えます。そこで批判者は変化するということは無常なもの、すなわち「刹那生滅」の存在ということになると攻撃します。別に「非刹那生滅常住」でも変化していけないことはないと思いますが、二元論的に霊魂と身体の関係を把握するにおいて、魂の大きさということが必要になるのは、身体全体に関わる・宿るという考え方から来ているのでしょう。霊魂は大きさを持たないとか、身体、あるいは感覚器官や脳などに接触するだけという考え方もできると思うのですが、ジャイナ教徒はそのようには考えなかったのでしょう。昔の人はだいたいそういう実体的感覚だったのでしょうす。とはいえ、差別相の身体と無差別相の魂を結びつけるのが容易な、唯心論的あるいは唯神論的感覚の強いインド人が霊物二元論の、霊的世界と物的世界が別々だということに何となく矛盾を感じるのも分かります。ジャイナ教の考え方はインド的にはきわめて異質で、原子論や霊物二元論などギリシャ人の考え方に近いといえるでしょう。
これで唯神論と霊物二元論の違いが鮮明になってことと思います。
卐
沒有留言:
張貼留言