※スマナサーラ長老による読経をお聴きになりたい方は、音声ファイルを[ダウンロード]してください。終わりには祝福のお経があり、最後までお聴きになれば、護経となります。 | |
1.カラニーヤ マッタ クサレーナ ヤン タン サン タン パダン アビサメッチャ サッコー ウジュー チャ スージュー チャ スワチョー チャッサ ムドゥ アナティマーニー [解脱という] 目的をよくわきまえた人が、 静かな場所に行ってなすべきことは [以下の通りである。] 何事にもすぐれ、しっかりして、まっすぐでしなやかで、 人の言葉をよく聞き、 柔和 ( にゅうわ) で、高慢でない人になるように。 | |
2.サントゥッサコー チャ スバロー チャ アッパ キッチョー チャ サッラフカ ヴッティ サンティンドゥリョー チャ ニパコー チャ アッパ ガッボー クレース アナヌギッドー 足ることを知り、手が掛からず、 雑務少なく、簡素に暮らし、 諸々 ( もろもろ) の感覚器官が落ち着いていて、賢明で、 裏表がなく、在家に執着しないように。 | |
3.ナ チャ クッダン サマーチャレー キンチ イェーナ ウィンニュー パレ- ウパワディッユン スキノー ワー ケーミノー ホントゥー サッベー サッター バワントゥ スキタッター [智慧ある] 識者達が批判するような、 どんな小さな過ちも犯さないように。 幸福で平安でありますように。 生きとし生けるものが幸せでありますように。 | |
4.イェー ケーチ パーナ ブータッティ タサー ワー ターワラー ワー アナワセーサー ディーガー ワー イェー マハンター ワー マッジマー ラッサカーヌカ トゥーラー いかなる生命であろうともことごとく、 動き回っているものでも、動き回らないものでも、 長いものでも、大きなものでも、 中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、巨大なものでも、 | |
5.ディッター ワー イェー ワ アッディッター イェー チャ デゥーレー ワサンティ アヴィデゥーレー ブーター ワー サンバウェースィー ワー サッベー サッター バワントゥ スキタッター 見たことがあるものもないものも、 遠くに住むものでも、近くに住むものでも、 既に生まれているものも、[卵など、これから] 生まれようとしているものも、 生きとし生けるものが幸せでありますように。 | |
6.ナ パロー パラン ニクッベーター ナーティ マンニェータ カッタチナン カンチ ビャーローサナー パティガ サンニャー ナーンニャマンニャッサ ドゥッカ ミッチェッヤ どんな場合でも、ひとを 欺 ( あざむ) いたり、 軽( かろ) んじたりしてはいけません。 怒鳴ったり、腹を立てたり、 お互いにひとの苦しみを望んではいけません。 | |
7.マーター ヤターニヤン プッタン アーユサー エーカ プッタマヌラッケー エーワンピ サッバ ブーテース マーナサン バーワイェー アパリマーナン あたかも母が、たった一人の我が子を、 命がけで守るように、 そのように全ての生命に対しても、 無量の [慈しみの] 心を育てることです。 | |
8.メッタン チャ サッバ ローカスミン マーナサン バーワイェー アパリマーナン ウッダン アドー チャ ティリヤン チャ アサンバーダン アベーラン アサパッタン 慈しみの心を、一切世間(すべての生命)に対して 限りなく育てることです。 上に、下に、横(周り)に[棲む如何なる生命に対して] も、 わだかまりのない、怨みのない、敵意のない心を育てることです。 | |
9.ティッタン チャラン ニスィンノー ワー サヤーノー ワー ヤーワタッサ ヴィガタミッドー エータン サティン アディッテェッヤ ブラフマメータン ヴィハーラン イダマーフ 立っている時も、歩いている時も、坐っている時も、 あるいは横になっていても眠っていない限り、 この [慈悲の] 念をしっかり保つものである。 これが 梵天 ( ぼんてん) (崇高なもの) の生き方であると言われています。 | |
10.ディッティン チャ アヌパガンマ スィーラワー ダッサネーナ サンパンノー カーメース ヴィネッヤゲーダン ナヒジャートゥ ガッバ セッヤン プナレーティー ティ [このように実践する人は] 邪見を乗り越え、常に戒を保ち、 正見を得て、 諸々 ( もろもろ) の欲望に対する執着をなくし、 もう二度と母体に宿る( 輪廻( りんね) を繰り返す)ことはありません。 <日本語訳:日本テーラワーダ仏教協会> | |
エーテーナ サッチャ ワッジェーナ パートゥ トヮン ラタナッタ ヤム(3回) この真理の言葉によってあなた(がた)は、三宝に守られますように。 | |
「慈経」の由来 或る年の雨安居が近づいた時、舎衛城に住された釈尊のもとで冥想法を学んだ比丘達のうち五百人ほどの或る一団が、好適な安居の地を求めて次第にヒマラヤの麓にわけ入り、或る静かな森林を見つけ、その樹々のもとで日夜精進することになった。 ところが、比丘達の浄戒の威光によって自分達の威光をそがれた樹神達は、子供連れで森を出てさまよい、一日も早く立ち退いてほしいと、修行の妨げとなるよ うな怪異、悪臭、叫声等で悩ませ、たまりかねた比丘達が再び舎衛城の釈尊にまみえて指導を仰ぐと、釈尊は 「他に適当な安居の地はないから、もとの処にもどり、この「護経」を学んで日夜慈心を修しなさい。これはあなた方にとって身を護る「護 呪」(Paritta)であり「業処」(kamma-tthâna)である」と、諭され、引返した比丘達はその後は安らかに修行をつづけ、安居の明ける頃 には五百人が阿羅漢となって居た。その「護経」こそ「慈経」であると伝えられる。 (パティパダー2002年4月号より) |
Sundara Shiva
8 年前
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